母校は、眩しい夏の光に包まれていました。
おととしの三月、廃校になった母校は、夏草に埋もれています。むかしぼくたちは、けがをしないようにと校庭の石ころを拾い、草むしりをし、竹箕に集めました。
ある日、いつものようにプールの西側を通って下校したとき、春田先生が巻き尺を投げつけてきて、ぼくの顔、鼻から眉間にかけて直撃しました。ぼくたちがふざけていたらしく、それが野球の白線を引いていた先生にはうるさく、癪に障って投げてきたのです。直径30cmほどの硬い革のケース。痛かった。バスに乗って帰るぼくは、我慢して泣かずに帰ったと思います。その場所も草むら。
理科園の風速計・風向計の鉄塔も蔓性の植物がのぼっていました。百葉箱はありません。木製ですから朽ち果てて撤去されたのかもしれません。
正門の上、東の外壁の高いところにあった校章がなくなっていました。象徴を取り外す象徴行為。けど、南側の外壁プールの上の校章は残っています。伊藤圭介翁のブロンズはありました。
校名の書かれたプレートもあちこちにあってその名を伝えていますが、やがてなくなるのでしょう。
あるとき、通用門の外の歩道に、図書のセールスマンがいてチラシとともに購入の勧誘をしていたことがあります。『日本の歴史』全22冊を親に相談して買ってもらいました。定期購読形式で送られて来る、写真をたくさん載せた、薄いですが大判の本です。これの1冊め2冊めが原始、古代で、考古学の発掘(和島誠一先生の三殿台や月の輪)の写真に惹かれ、中学へ進んで二年生のとき発掘を体験するきっかけとなりました。
さようなら
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