名古屋に名古屋郷土文化会という組織がある。戦後1945年10月に発足して鶴舞中央図書館に事務局を置く。1946年から雑誌『郷土文化』を出し、そこに載る先行研究者の著作を、わたしもよく参照、引用してきた。去年入会し、投稿した原稿を掲載した最近号がきょう届いた。
「稲生原古戦場跡の世界」と題した小論は、稲生合戦のあった場所について考えたもの。稲生合戦は弘治二年(1556)に、柴田勝家と林秀貞らのグループと、織田信長のグループとのあいだの合戦で(要は織田家の内ゲバ)、信長側が名塚に砦を築き、それを柴田側が攻めるものの信長側の勝利に帰した。
稲生(いのう)、名塚はいまの名古屋市西区にある。現在の名塚の白山神社が砦跡に比定されていて教育・観光系の看板も立つが、そこではないでのではないかという疑問が大正の頃に提起されていた。小論は、その疑問に応えて検証したものである。
実は、白山神社を砦跡とする記述は、大正期にはじめて見られ、それ以前にはなかったこともわかった。名塚の砦は、白山神社ではないというのが小論の結論。対案も一応示したが、不明であることに変わりはない。
今回調べていて意外だったのは、稲生から堀越にかけてのいまの庄内川は、慶長の河川工事以前は矢田川だったことである。庄内川と矢田川の合流地点は、いまの稲生の北ではなく、堀越の先であったと言う。慶長以前の稲生合戦のようすも、いまの地理ではなく、慶長以前の地理で読みかえられなければならない。
稲生原古戦場跡は、庄内小学校、名塚中学校の学区にある。両校には通わなかったけれども、この学区に12年住んだ軽いネイティブとして書いてみた次第。
【構成】
はじめに
一 『西春日井郡誌』の問題提起
二 名塚等三ヶ村と庄内・矢田川の検討
三 『信長公記』の検討
1 地理的記事
2 砦
3 戦闘
四 白山神社、庚申塚の検討
1 白山神社
2 庚申塚
3 群としての戦死者供養
おわりに
1 物語の構造
2 名塚砦比定地案
3 生きられた古戦場跡
注
図説名
付記
(2021年9月22日改稿済)
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