先の記事「門付け」で、私が見た門付けを宮野の厄払いと対比したが、門付けが宮野の人であったどうかわからないことは、そこに書いたとおりである。しかしその身なりは、遠方ではない近所から、交通機関を用いずに徒歩でやってきたという印象を呈していた。そのことが宮野への連想にもなっている。ちなみに祖父母の家は、宮野から直線距離で1.2kmのところにあった。
そしてそれが、節分の来訪であったかどうかも定かでない。おそらく節分ではなかったと思う。民俗学者の坪井忠彦氏は次のように書いていた。
(略)現在でも節分の夜などには、市内を何ごとか、唄つて歩く厄払ひ男を見かけることがある。恐らくこんな歌の片端し位を唄つてゐる位であるが、それでも厄払をその一夜渡世に歩く人があることは、今でも名古屋の節分の夜に見受ける年中行事風景の一つである(1) 。
文中にある「こんな歌」とは、坪井氏が上の文章の直前に掲げた、9件の厄払い歌のことである。『俚謡集(2) 』に掲載されている愛知県の厄払いの歌13件の中から引用していて、西春日井郡で採取されたものであった。宮野のものが含まれているかもしれないが、『俚謡集』は「歌詞に特色あるものを採り、一般的なるものと猥褻なるものとは之を省きたり(3) 」としているため、選に漏れた可能性はある。「其唱ふる所の文句並に調子の面白さ、実に噴飯に堪へざるものあり(4) 」という評価から、宮野の歌が一般的なものでなかったことは想像できるが、猥褻の範疇に属したため省かれたかどうかはわからない。
それはおいて、坪井氏の書く節分の厄払いは、夜間の出来事であった。私が見た門付けは昼間のことであり、異なっている。いわゆる節分の厄払いではなかったのだろう。
さて、この地方における節分の厄払いの記事は、ほかの文献にも見ることができる。概して古い文献では、江戸時代以前に中心を置く行事として書かれ、新しくなるほど、例えば「戦中まであったようである(5) 」というような加筆がおこなわれてゆく。
『西春日井郡誌』の1923年から約40年後、坪井氏の1942年からは約20年後に、私が見た人は誰だったのだろうか。
注
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