父方の祖父母が住んでいた家、つまり父の実家──親戚のあいだでは本宅と呼んでいた──に、一時期、父、母、私、弟の一家で住むことがあった。何かの理由で祖父母が不在となり、その留守居のようなことだったと記憶している。私たちの住まいが本宅に近かったため、大がかりな引っ越しはせずに、長期にわたるものでもなかった。
その時、私は急性盲腸炎になり、真向かいにあった外科病院で手術し入院した。1965年5月26日から6月4日にかけてのこと。9才、小学校4年生だった。委細がわかるのは、病院の書類が残っていたからで、概して小学生の頃のことは憶えていない。
それでも、その家の建物、そこでの出来事の断片は思い出されて、そのひとつに門付けの来訪がある。大人の男性で、良い身なりをしていなかった。家々を廻り、一度だけではなかったような、子どもを連れていたことがあったような──。私は、玄関の上の2階の部屋から見おろしていて、階下から母の「困っちゃったわねぇ」と言う声を聞いていた。何か──お金か──を渡して引き取ってもらったようだが、子どもの私にはとても印象的な出来事であった。
あの人は何だったのだろう。どこから来てどこへ行くのだろう。深く思うこともなく、そういう人として了解してきた。
ところで、つぎのような記事がある。
此前後二三日間は新川町の上河原及び名古屋西区枇杷島町なる宮野より、国道筋の町家に「やつこはらひ」といふ者廻り来りて、所望者に厄を祓ふ事あり。其唱ふる所の文句並に調子の面白さ、実に噴飯に堪へざるものあり。近年上河原より出る者殆どなし(1)
冒頭「此前後二三日間」は、旧暦の立春前後の節分、その「前後二三日間」の意である。また国道とは、当時の国道12号線(のちの国道22号線、現在の県道67号名古屋祖父江線)のことで、西春日井郡内の枇杷島橋以北と名古屋市に編入された東枇杷島町の部分を指していると思われる。しかし、「町家」という表現からは、江戸時代以前からの美濃路筋がふさわしく、枇杷島橋以北・以南の国道筋に民家が希薄であったことは、昭和14年の地図(2) が教えるところである。また郡誌は、国道12号線について「本線は俗に美濃街道と称するものにして(3) 」とも書いていて、国道と美濃路の区別が緩やだったことがわかる。
要約すると、節分の時期、上河原、宮野から街道筋の町家に門付けが訪れ、厄払いの芸能を披露するというもの。金品の授受については触れられていないが、おそらくあったであろう。
さて、祖父母の家は、美濃路筋ではなかったが、国道から2本目の通りにあり、昭和初期までには街区が形成されていた。私たちが住んでいた頃、美濃路筋は活況を呈していて、周囲の新しい町も活気を帯びていた。旧暦を使用していた時代から門付け来訪の伝統のあった街道筋、そして街道に並行して新設された国道の周辺に発達した街も含めて、門付けの市場足り得ていたと思う。
しかし郡誌は、編纂時のようすとして、上河原からの門付けはなくなり、宮野だけになっている旨書いていた。門付けは変化していたわけで、それからさらに40年以上が経ち、門付けが消滅していたとしても不思議ではない。その人が、物乞いに見えたのはそういうことだったのか。否、私が見たのは「芸能を失った門付け」だったのかもしれない。そう言うのは、荒唐無稽に過ぎるだろうか。
宮野から来た人だったのかどうか。その頃、宮野に人が住んでいたのかどうか。いずれもわからない。それでも、あの場所、あの町、あの地域の様式、その外延としての「門付け」を思うのである。そして、門付けも変化してゆくものであり、芸能の有無はその過程のひとコマであるから、「芸能を失った門付け」はあり得るだろう。それを、門付けと呼ぶかどうかは、ディシプリンの都合による問いである。
その人はどうしているだろうか。当時30歳とするといま85歳。その人はきっと憶えていないだろうが、私は憶えてきた。祖父母も父母もその家もなくなったけれど。
付記 これを書き終える時、ふと、その人が何かをしてくれようとして、当然にその対価が求められていて、してくれる何かそのものを母が断っていたような情景が浮かんだ。ひょっとしたら芸能はあって、おこなわれようとしていたのかもしれない。が、もう知るよしもない。
注
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