『西春日井郡誌』は、第13章「名所旧蹟」の第4節「旧蹟」で、次のように書く。
庚申塚。庄内村大字名塚庄内小学校の西隣にあり弘治二年稲生合戦の際将士の戦死せし所といふ。小丘の上、青面金剛童子の小祠あり。数株の老松寂しく立てり。
狐塚及鳥見塚。庄内村。惣兵衛川附近にあり。稲生合戦の際将士戦死の跡ならんといふ(1) 。
ここには、「庚申塚」と「狐塚及鳥見塚」の二つの項目がある。庚申塚の文章は、以前の記事「惣兵衛川──庚申塚の神威」で掲げた、『庄内町誌』「庄内町名勝旧蹟」の記述のもとになっている。
比べると、上の「庄内小学校の西隣」が『庄内町誌』で「役場の西側」となるのは、それぞれの施設の移転があったためで、碑のことが上に書かれていないのも、まだなかったからである。碑は、上が書かれた7年後の昭和5年(1930)に立てられた(2) 。「小丘」と「稍々小高くなつてゐる所」、「数株の老松寂しく立てり」と「数株の老松が寂然として立つてゐる」は、それぞれ対応する。
ところが、「青面金剛童子の小祠」と「正徳年間勧請した武雷命の小祠」との異同がある。(1)小祠はふたつあったのか、(2)小祠はひとつで青面金剛と武雷命が祀られていたのか、(3)小祠はひとつで青面金剛と武雷命を誤認したのか、など、このほかにも疑問が生じる。これは別の検討に影響するため、忽諸にできない課題である。
二つめの項目で、庚申塚のほかに狐塚、鳥見塚のあったことを記す。稲生合戦の、前者は「将士の戦死せし所」、後二者は「将士戦死の跡」と同じ形の表現をとっている。『庄内町誌』も「将士の戦死した所」と書いて同形式であった。
また私たちは、「この村の辻に五輪の塔が処々にあるは、兵士戦死の跡なりと伝う(3) 」という別の記事に接することができるが、「塚」ならぬ「五輪塔」に対しても「兵士戦死の跡」として、その属性の形式は変わらなかった(4) 。
ところが、さらに後世になると、「稲生合戦で多くの将兵が戦死したが、土地の人々はこれを哀れみ、一か所にその死体を集めてだびに付し、塚を築いて冥福を祈った(5) 」あるいは「稲生合戦の際戦死した人々の霊を祀った(6) 」というように、物語、つまり創作が加わり、装飾され変形する。その結果私たちは、どこまでが一次の情報で、どこからが二次の情報なのか、わからなくなってゆく。
もちろん、「戦死せし所」「戦死の跡」「戦死した所」というのも、その場所で死んだのを見たわけではないだろうから、これすらも創作である。ならば、創作に創作を重ねる、屋下屋を架すことはやめて、一次の情報のそのままを伝えるか、新しい一次の情報を探すことに傾注すべきと思うのである。
注- 愛知県西春日井郡編『西春日井郡誌』、愛知県西春日井郡、1923年3月30日、469頁。 ↩
- 碑の銘文による。 ↩
- 山田幸太郎「稲生原古戦場址」名古屋市文化財調査保存委員会『改訂増補版名古屋史蹟名勝紀要』、株式会社名古屋泰文堂、1963年11月12日(1951年11月18日初版)、36頁。 ↩
- 本稿は、塚と五輪塔が別物であると主張するものではない。五輪塔のある場所を塚と呼ぶ事例のあることは、承知している。しかし、稲生原の塚と五輪塔の対応関係が不明な現状では、まずは表記の違いにしたがうのが妥当と考えた。 ↩
- 『創立百周年記念 庄内』、名古屋市立庄内小学校、1973年2月1日、157頁。 ↩
- 同書、184頁。 ↩
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