先回、「庚申塚の神威と霊火の妻問ひ」の後半を引用したので、前半部分も掲げておきたい。
庚申塚は惣兵衛川の題に直接属さないが、庚申塚と惣兵衛川とに多少の地理的関心がないわけではない。庚申塚を避けて惣兵衛川は設けられたのか、あるいは惣兵衛川開鑿に際して庚申塚の移動がおこなわれたのか否か、配慮は必要なくただ単に惣兵衛川は庚申塚の脇を通ったのか、などである。
庄内町役場の西総兵衛川の流に沿つて数十坪の塚がある。所謂庚申塚である。数本の松樹と雑木が生立つてその中にさゝやかな祠がある。町民が庚申塚といつく神霊の宿る所である。この神は境内の物を痛く愛し給ひ樹木の一枝、砂の一握でも持帰らうものならば恐ろしい神罰を蒙る。故に町民は枯葉と雖も持帰らず参拝するにあたつては塚前にて裸足になり帰りにはよく砂をはらつて下駄を穿くといふ。又不潔なことをした為に精神錯乱し甚だ苦んだ実例が幾つもある。又町民のこの塚の前を通る者は必ず礼拝する。それは「我前を通る者我此処にいつかれあるかを知らざるか」との託宣であるからと古老は語つて居る。こゝに面白い話がある(1) 。
なお、同書の「庄内町名勝旧蹟」の項にも、庚申塚が次のように掲げられている。
庚申塚
大字名塚庄内町役場の西側で稍々小高くなつてゐる所である。碑が一本立てゝ示してあるが此処は弘治二年稲生合戦の際将士の戦死した所であると伝へられてゐる。数株の老松が寂然として立つてゐる。正徳年間勧請した武雷命の小祠もある(2) 。
『創立百周年記念 庄内』は、「庚申塚の神威」の話も平易な文章にして載せている(3) 。
現在の庚申塚
注
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