2 1月 2013

追悼 小原博樹さん

Posted by fische on 01/02 at 10:56 PM

1970年代初頭―1972年だったと思う―、秀吉の朝鮮出兵に関する批判的な内容のプリントを抱え、小原さんは私の前にあらわれた。それを受けて私は、小原さんに市民の会を紹介した。市民の会の対市交渉ではじめて帝冠様式の市役所に入ったとき、市立中学校の教員なのに市の教育委員会に向かう姿は、高校生の私には異形だった。ついでに言うと、鳴海駅近くの暗い下宿にうかがったとき、夏だったからか、布団やベッドでなくリクライニングの長椅子を、ハンモックのようにして寝床にしていたのも奇異だった。

交流で朝鮮高校に行ったとき、高校生に混じって同行した小原さんは、壁に貼られた時間割表を観て「ああ、国語ね。ウリマルって書いてある」と、いつもの独り言のように言っていた。考古学を専攻して朝鮮現代史をも主題にするというのは、いまでは営業的にありふれた光景だが、40年前はそうでなかった。

学生時代、釜ヶ崎のドヤに宿泊して荷物一切を盗まれたという逸話をもつ。考古学研究者の佐原眞が大人になってからドイツのバーで、ちょっとドイツ語ができたからなのだろう、調子に載ってその挙げ句盗難にあったのとは違い、ルンペンプロレタリアートへのシンパシーが小原さんにはあった。赤松啓介のような人と言えなくもないが、線は太くなく、あくまで教員だった。プチブルインテリゲンチャ!

最後に会ったとき、当時書いていた博士論文の構想について話すと、「それで、○○(私の苗字)は何が言いたいの?」とお決まりの聞き返しをした。応えて説明したが、それへの返答はわかったようなわからないような・・・。小原さんが視線をそらすときは、もうどうでもいいときだったように思う。so what が小原さんのスタイルだった。ご自身の意見はあっただろうが、明確にする人ではなかったような気がする。シャイだったのか。相手に聞き返し、応答があって、しかしそらすのは、教員独特のスタイルだったのかもしれない。

また、最後に会ったとき、「ぼくが朝鮮問題にかかわるようになったのは、○○(私の苗字)のせいだからね」と言われた。実際にそうだったかもしれないが、そのようなことは言わなくてもいいし、それ以前から小原さんはそうだったのに、と思いながら、私は「へへ・・・」と言ってそらした。

この5月に退職者を祝し物故者を悼む飲み会があるとの報せが、三浦さんの年賀状にあった。歴教協がらみだが、そういう小原さんとは何であったのか―。さらに、小原さんの死に接し、それを自らの「喪中」として年賀状を出さない人がいる。私の知る人の中で、ただひとり小原さんを「さん」づけなしで「小原」と呼ぶ、昨年喜寿のを迎えたその人は、あのビルのオーナーであり、小原さんの大学の先輩である。世人このことをよく知るだろうか。

写真:テーブル席左から小原さん、私、辻本さん。1988年、岐阜の友人の結婚披露宴で。撮影者不明。

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