7 1月 2012

恭賀新禧 2012壬辰年正月

Posted by fische on 01/07 at 06:02 AM

image今年の年賀状は、『国立中央博物館時報』第4~6号(1940年)の表紙カットの図「契丹文字の篆蓋の一部」を改変して使用した。

これは、内蒙古のワールインマンハにある、遼代の陵墓「慶陵」のひとつ道宗の永福陵から出土した宣懿皇后の墓の蓋の拓本(部分)で、碑面の傷の位置関係から全体図の左上角にあたる。

これの発見と顛末については、齋藤武一が次のように書いている。

 (略)興安西省白塔子の西北ワール・イン・マンハ(Warin-manga)にある遼の皇陵中から石刻された漢字及多数の契丹字を有する哀冊(墓誌銘)が、西暦1927年L.Ker氏によつて発見された。その後陵内に存在した契丹字の哀冊(四基)は、数基の漢文のものと共に、時の熱河省主席湯玉麟の子湯佐栄により運び出され、奉天の私邸に秘蔵されてゐた為一時行衛不明の状態にあつたが、京都帝大の田村實造氏は該哀冊が湯邸に存在することを探し出され、満洲国の建国により、契丹文字の資料は、奉天分館の所蔵するところとなつた。
 今迄数字しか知られなかつた契丹文字が、この四基の哀冊によつて、一躍二千字近くも世にあらはれたことは、満洲国が世界無比なる資料として、学界に誇ることが出来る。
齋藤武一「契丹文字と女真文字」(木場一夫編『国立中央博物館時報』第11号、国立中央博物館、1941年、13頁)

この資料の重要性は、「満洲国に国宝令が施行せられたら第一番に指定せられるべきものであらう」(三宅宗悦「奉天博物館展望」木場一夫編『国立中央博物館時報』第4号、国立中央博物館、1940年、24頁)と語られてもいる。

また文中に登場する田村實造は、上の事情に触れて次のように書いた。

 (略)その後田村は、北平において一中国人から、慶陵から承徳に運び去られた哀冊碑石や陶磁器などの遺物が、ひそかに奉天方面に移送されたらしいと伝え聞いた。
 そこで翌一九三二年三月末、北平から帰国の途次奉天に立寄り、二、三日を費やして、哀冊の行方について八方探査に努めたところ、幸運にもめざす哀冊碑石群が、日本関東軍の管理下に、奉天商埠地なる湯佐栄邸内に保管されていることを聞知し、関東軍との幾度かの折衝の末、邸内に入ることを許され、ついにシュロ縄で頑丈に梱包されたまま庭前に放置されていた十数基の哀冊碑石を見つけ出すことができた。とくにこれらの碑石のうちには、契丹文哀冊二組四基も見出されたが、この哀冊発見こそ、われらの多年にわたる宿題であったのである。ちなみにこれら十五面の哀冊碑石は、今は遼寧省博物館に陳列されている(図3)。
(田村實造『慶陵調査紀行』平凡社、1994年、22-23頁)

なお、現在の遼寧省博物館はもとの満洲国国立博物館で、満洲国国立中央博物館が成立してからはその奉天分館となった。当時建設中であった湯玉麟邸宅を買収して国立博物館とした。

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  1. 齋藤武一の記事に関するメモ:田村實造『慶陵調査紀行』(平凡社、1994年)によれば、「Warin-manga」は「War-in mangha」、「西暦1927年L.Ker氏によつて発見された」は「1923年R. R. L. Kervyn氏によつて発見された」となる。

    Posted by .(JavaScript must be enabled to view this email address)  on  01/07  at  01:42 PM

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