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カテゴリー: memoirs

ガイネン

けさ目覚め、布団のなかでふと思いだした。

高校の図書室で、同級生二三人がふざけていて、教師に怒られた。教師は、「いま青年たちが○○しているのに、君たちはそのようにふざけていていいのか?」と生徒たちに言った。

わたしはこの光景を、少し離れたところから見ていた。そして以後、何度か繰りかえして想い起こしてきた。ひょっとしたら、繰りかえすうちに、お話を作りかえているかもしれないが、主旨は、その教師の潔癖性において了解してきた。のちにこの教師の名を『武功夜話』の研究で見ることになるように、研究をする教師だった。プチブルインテリゲンチャの潔癖主義──。

起床して、「○○はいつのことだっけ」と調べて見ると、48年前のちょうどいまの時期だった。図書室には暖房がはいっていたのだろうか。

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発掘50年補遺

写真と記憶とから先の記事を書いたが、見晴台遺跡第8次発掘調査参加を記録した当時のノートが出てきたので、記事に関係する部分のみ引用しつつ、以下に補遺する。

  • 私が参加したのは、8月15日(金)全日、同17日(日)全日、同19日(火)午後半日。
     ­
  • 8月15日:8–3トレンチ(1) 担当。

吉田先生は、「ここは、住居址だとすると、わざわざ黒土をしいたのだろう。」とおっしゃった。
また川田中の先生は、「これから発掘していくのなら、隅丸方形の住所址と考えていくといい。」とおっしゃっていた。

  • 8月17日

飯尾恭之さんが来た。

  • 8月19日:8–5トレンチ(2) 北側担当。

岡本さんに見せたら、彼は、三渡先生に見せた。

そのあと桜台高校でコンパがあり、ぼくは2日半発掘参加したので1000円もらった。

「川田中」は川名中の誤記。「川田中の先生」は川名中の荒木実先生のこと。

ノートから、全期間参加していなかったこと、岡本さんとは、会っただけでなく同じトレンチで作業し、指導を乞うていたことなどがわかる。

なお、ノートに書かれている発掘調査に関する所見などについては、別の機会に紹介したい。

  1. 「第4図 見晴台第Ⅷ次発掘区平面図」の「8–3」と同じ。吉田富夫・荒木実『見晴台遺跡第Ⅵ、Ⅶ、Ⅷ次発掘調査概報』、財団法人荒木集成館、1992年7月1日、5頁。 []
  2. 「第4図 見晴台第Ⅷ次発掘区平面図」の「M5T」と同じ。同書、5頁。 []
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発掘50年

「発掘五〇年」は近藤義郎先生の著書(1) のタイトルだが、先生の充実した考古学研究のそれとは異なり、私の「発掘50年」は、50年前、はじめて発掘調査に参加したということにすぎない。のちに就いた仕事が「発掘をしない考古学」だったこともあり、発掘との濃厚な関係はできずじまいだった。

50年前、名古屋市南区にある見晴台遺跡の第8次発掘調査に参加した。学校単位の募集や、学校のクラブ顧問引率による参加ではなく、この年の春、偶然お会いした飯尾恭之氏に紹介されて得た機会だった。1969年8月13日から8月19日まで、台地東側の低地でおこなわれた調査(2) に、全期間参加したかどうか忘れたが、最終日のことを憶えている。

その日の夕方近く、台地斜面の道路脇に試掘坑が設けられ、一群の人がそこを囲んでいた。調査はもう終わるのに掘っていた。試掘坑は一坪に満たない狭いもので、中で男性がひとり一生懸命掘っているのである。俺がやります!という感じで。その人は、その日だけ、その時だけ参加していて、けれどみんなの知り合いらしく、和気あいあいとした雰囲気がそこにあった。岡本俊朗氏だった。紹介されて言葉を交わしたかどうか、誰かに教えてもらったのか記憶にないが、そのときはじめて岡本さんを見た。

そのあと、1983年に急逝されるまで交流があったにもかかわらず、第8次発掘調査のときのことを、「あれは岡本さんだったですよね」と聞かないまま過ぎてしまった。(いや、聞いただろうか・・・。)

見晴台遺跡の発掘参加から50年。考古学の人に出会って50年。それにことよせて、昨年度と今年度の見晴台遺跡発掘中止について、別のサイトに書いてみた。どうぞご一読のほどを。
「市民発掘 過渡期迎え中止」を読んで

※写真は見晴台遺跡第8次発掘調査の平板測量の光景。筆者撮影。

  1. 近藤義郎『発掘五〇年』、株式会社河出書房新社、2006年1月20日、参照。 []
  2. (岡本俊朗編著)『―第20次記念―見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、25–26頁。 []
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七葵会

幼小中同窓とのやりとりで、話題が小学校の担任教諭に及ぶ。6年担任は同窓会にご招待してお目にかかる機会があったけれど、6年以外の担任にもお会いしたかったという。

過日、荷の奥から出てきた1978年度の卒業生名簿──ワープロ以前の手書きコピー──には、確かに恩師として7名のお名前が載っていて、同窓会にお迎えすることはなかったものの、恩師の範疇の広かったことを知る。それは、そのときの同窓会幹事の見識だったし、卒業後10年ぐらいは私たちが共有する感覚でもあったと思う。

同窓が会いたかったという1年担任の教諭。私の関心はつねに地理に向かいそこからはじまるので、1978年の名簿に載る住所を調べる。40年のあいだに、地名地番の変更はなかっただろうか。1984年にその町の一部が別の町に編入されているが、先生のご住所とは離れているため大丈夫。地名の変更もない。分筆は進んで、号は付されているらしい。この丁の番地がふられた原則もたどってみる。セオリどおりに時計回りであった。

お住まいはいまもそこにあるごようす。お元気でいらっしゃるだろうか──。

あわせて、国立国会図書館デジタルコレクションが蔵する雑誌に掲載された座談会に、先生と同じお名前を見つける。あまりみかけないお名前なので、たぶん先生だろう。刊行年1968年は、私たちが小学校を卒業した年。件の雑誌は、公開範囲が国立国会図書館内限定で、図書館送信資料として閲覧できない。しかし、遠隔複写サービスが可能なため、町の図書館までひとっ走りして頼んできたところ。

ところで、同窓会名簿1978年度版のあとがきに、この同窓会の名称を「七葵会」にしたいとの提案が書かれていた。「しつきかい」と読むとの注記もある。提案はその後どうなったのだろう。小学校の恩師、同窓なべて、七葵会の語の新鮮のうちに想う、きょう三月三日であった。

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