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カテゴリー: archaeological studies

堀越町遺跡拾遺・続


名古屋市西区堀越町遺跡の写真をもう一点。『名古屋の遺跡百話(1) 』に掲載されているもので、「第七話 天塚町遺跡(西区)」の記事に添えられている。写真のキャプションは「第7図 掘越町東レ球場付近(堀越町遺跡あと 第75話参照)(2) 」。

吉田富夫先生が撮影されたものであれば、1970年の光景である。東洋レーヨンのグラウンドに立って、西から東を見ている。掘削工事で遺物が出土した箇所全体を画角におさめているため、事情を理解したうえでの撮影であることがわかる。

  1. 吉田富夫・大参義一『名古屋の遺跡百話』(文化財叢書第61号)、名古屋市教育委員会、1973年11月30日、参照。 []
  2. 同書、4頁。 []
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堀越町遺跡拾遺

堀越町遺跡のことをおさらいしながら、気づいたことを少し。

1970年の初日の1枚を除いて、この遺跡の写真を撮ってこなかった。写真熱が冷めていたからなのか、あまりにも近所だったからなのか――。東洋レーヨンのグラウンドの風景は撮ったような気もするが、定かでない。

かわりに、遺跡を学区にもつ庄内小学校の『創立百周年記念 庄内』に載るグラウンドの写真2点(1) を掲げる。この景色は、私が知るのとほぼ等しい(上の写真、並置は私による)。

写真2点は、グラウンド西角の庄内川左岸堤防上から東方を見た、北半分(同書145頁、上の写真の左、下の図の赤色)と南半分(同書65頁、上の写真の右、下の図の青色)である。同じ時の撮影と思われ、南半分近景のバックネット左端が切れているが、遠景は連続しているように見える。1枚の写真とも見まがうが、別カットであろう。

北半分の左方、グラウンド後ろに名古屋市水道局城北下水ポンプ所、右方に東レの煙突が見える。

南半分の写真には、左端グラウンド上方に東レの西門、正面の遠くに国道22号線沿い同社4階建ての社屋が見える。右のさらに遠方の塔は、西消防署の望楼である。

1970年の工事は、グラウンドの東辺に沿うネットの手前、写真左側(北)から右側(南)へと掘削しておこなわれた(上の図のグランド内右側、黄色の縦方向帯状部分)。

  1. (写真)「船人夫町貝づかあと(東レ運動場)」・(写真)「船人夫町貝塚址(東レ運動場内)」『創立百周年記念 庄内』、名古屋市立庄内小学校、1973年2月1日、65・140頁。 []
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史蹟八幡山古墳

遠くの図書館から借りてもらった本(1) の、巻頭図版のひとつに学ぶ。

図像学的に、被写体は考古学の対象でありながら、石碑すなわち史、文を中心に据えるという、この写真の精神性の問題。

政治学的に、大日本帝国期日本の指定(1931年)でありながら、大衆の立ち入りが可能だった撮影当時の政治的自由。ひるがえって昨今、行政権力による古墳整備・管理がもたらす抑圧、すなわち政治的不自由の問題。

たとえば、近代天皇制のもと仁徳天皇陵と定義されきたった大仙古墳も、江戸時代には民衆がこれにのぼり興じていた。それに通じる気配が、この写真から感じられる。およんで古墳の権力性とは、築造当時の古代奴隷制はいざ知らず、近代天皇制、さらに現在の民主封建制の所産とみなすことができるだろう。

八幡山古墳の、秀でた近代性についてはさらにもう一点あるが、それはまた別の機会に。

  1. 名古屋市役所経済局文化財調査保存委員会『名古屋史蹟名勝紀要』、芸術案内社、1954年12月25日、(巻頭図版)。 []
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堀越町遺跡48年

1970年6月8日――48年前のきょう、東洋レーヨン(名古屋市西区)のグラウンドでおこなわれていた工事で、遺物が出土しているのを確認した。月曜日、学校帰りのバスから、土が掘り上げられているのを目撃し、帰宅してすぐ現地に駆けつけてのこと。自宅から300メートルほど、バス停1区間あるかないかの極々近所だった。

ここに遺跡があることは、前から知られていた。特に、その年の3月に刊行されたばかりの『名古屋の史跡と文化財』に、「(略)船人夫町東洋レーヨン運動場内にも、同じころの貝塚が並び存したことが知られている(1) 」と書かれてあるのを読んで、私の注意も向いていたのだろうと思う。

遺物の発見を飯尾恭之さんに報せ、飯尾さんは現地を調査された。さらに飯尾さんから吉田富夫先生に情報がもたらされ、その年に吉田先生が来宅、出土遺物を実見、調査された。

翌1971年から始まった新聞連載『遺跡ここかしこ』で吉田先生は、「弥生中期以降の堀越町東レ球場(2) 」と書かれている。先の調査成果を踏まえ、それまで5世紀ごろと思われてきた遺跡の時期が遡るとともに、地名表記が「船人夫町」から「堀越町」へと変わり、「貝塚」という言葉も消え、「船人夫町貝塚」の名称がなくなった。今風に言うと、これは「遺跡のデータベースのフルモデルチェンジ」であり、その意味において、堀越町遺跡(3) の「発見」であった。

ところで、新聞連載が一書にまとめられたとき、この記事に「第84図 堀越遺跡 須恵器」というキャプションをもつ写真が添えられた(4) (上の写真)。就職後、機会を得て同書編集の実務に携わった人に聞いたところ、吉田先生が撮影した写真を使った旨教えられた。それならばそれは、吉田先生が私の家で撮られたもの。1973年以前、石膏で修復する前のこの須恵器・横瓶を、このアングルで撮影したのは吉田先生だけであった。須恵器の後ろには私や部屋の一部が写っているに違いなく、そのままでは本の挿絵としては都合が悪いため、須恵器だけが切り抜かれて背景を墨ベタにしたものと思われる。

それからずいぶん経ってグラウンドはなくなり(5) 、なにかの機会に名古屋市教育委員会による発掘調査がおこなわれて、弥生時代前期の遺物が出土したと聞いた。ついでながら、私たちが暮らした家も、2014年7月にその前を通って見たのを最後に、8月31日に行ったときには更地となり、跡形もなく消えていた。

  1. 吉田富夫「則武向貝塚・船人夫町貝塚」『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、1971年3月1日、24頁。 []
  2. 吉田富夫「則武向貝塚(西区)」『中日新聞』第10681号、1972年2月19日、10面。 []
  3. 飯尾恭之・犬塚康博「名古屋市堀越町遺跡調査概報」『古代人』第24号、名古屋考古学会、1972年9月15日、13-22頁、参照。 []
  4. 吉田富夫「第七五話 則武向貝塚(西区)」吉田富夫・大参義一『名古屋の遺跡百話』(文化財叢書第61号)、名古屋市教育委員会、1973年11月30日、45頁。 []
  5. 『名古屋都市計画基本図』によれば、平成17年(2005)の基本図にグラウンドはあるが、平成22年(2010)にはなく、新規に大型建物2棟が見られる。ちなみに同地には、平成22年4月15日にバロー堀越店がオープンしている。 []
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諏訪山遺跡

6月になったので、ためてしまった手紙を書き、きのう夕方、犬の散歩をしがてら投函する。

諏訪山遺跡――。『緑区の歴史を学ぼう会会報』を送ってくださった堀崎先生に礼状を書きながら思い出す。

公共施設を作る工事でこの遺跡が破壊されたとき、飯尾さんについて現場を見にいった。日曜の午後だったろうか。古墳時代の土師器の高杯があらわれていた。脚部の裾が屈折して外へ広がるタイプの、赤褐色を呈する高杯だった。高杯は、土がついたままビニール袋に入れて、帰りに寄った飯尾さんの実家に託した。

現場を去るとき、遺跡のある丘陵が夕闇に黒く浮かんでいた。

公共施設なのに遺跡を破壊するのか、と思ったことを忘れない。緑区役所だとすると、1974年1月に現在地へ移転したから工事は前年の1973年となるが、もう少し前だったような気がする。別の施設かもしれない。

吉田富夫先生は、諏訪山遺跡について「弥生後期の土器を出したが、この時期にこのような高い丘陵に占拠するのは珍しい(1) 」と書いて高地性遺跡を示唆されていたが、高杯は少し時代の下るものだったため、異なる印象を抱いたことを憶えている。

ふと思う。あの高地性遺跡体験のポテンシャルが、約10年後――たったの10年後――の東谷山山頂遺跡体験につながっていたのだろうか、と。

  1. 吉田富夫「諏訪山遺跡」『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、16頁。 []
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